「私はシャルリ」とは言えない

言論の自由に関する権利は、護られるべきものであって、振り回すものではない。

言い回しの巧みさと、声の大きさは「言論人の武器」である。そのような「武器」を非言論人に向けて使うことが、何故おおっぴらに、文化的行為のようなふりをしてまかり通っているのだろう。非言論人が彼らの「武器」を使って反撃してくるのを十分に予想しながら、何故、挑発的(で英雄的)な悪ふざけが続けられるのか。非言論人の「武器」の生産企業に資金が廻るように仕向けるのも「言論人の武器」の重要な役目だから、その「武器」を流通させ、実際に使わせる必要があるのかもしれない。

殺人を擁護する心算はない。つもりはなくても遺憾ながら態度で示している場合もある。

空爆で人を殺すのは、毎日まいにち繰り返される、軍隊による虐殺行為は、何故許されているのだろう。許されていないはずはない。許されているのだ。物言わぬ民衆によって。

「私はシャルリ」の旗を振って先頭を行く者たちは(そしてゾロゾロと行列に並ぶ人たちも)、「私は負けない」と叫んでいるらしい。

勝ち負けの問題か?

 

年末の喧騒

12月25日(木) 曇り時々晴れ -4.9/4.4℃

年末の喧騒と言ってみたが、ここは別世界。雪が積もって、ただでさえ静かな朝がいっそう深い沈黙。村はずれで雪掻きも楽じゃねえだろう、と御好意で廻って来て下さった除雪機も溝にはまって沈黙に耐える。

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およそ一週間、耐えて昨日、無事に救出されて行った。

朝のストーブの上は暖かな賑わい、所狭しと並んだ鍋やかん、湯たんぽ、コーヒーにパン。

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クリスマスの行事とはほぼ無縁、もっとも、東京でもクリスマスの日は必ず仕事があったから、世間並みに祝ったのはもう前世紀の話だ。元々クリスマスはキリスト教と関係ない、という話を、昨年の今頃、キリスト教と関係のある方からうかがった。ロシアにも樅の木祭り、ヨールカ祭というのがあって、キリスト教受容以前からあった風俗だったとかなんとか、『ロシアの言語と文化』に書いてあった気がする。と書いた瞬間、そんな風には書いてなかった気もする。記憶力が衰えるということを実感する今日この頃。

それでもケーキは食べた。お隣さんの孫娘のお手製、イチゴの載ったシフォンケーキと、生き物係さん自慢のアサヒ軽金属ニューワイドオーブンで焼いたスポンジケーキ(パチパチ)。どちらも食べるのに夢中で写真がないのが残念。シフォンケーキはどこかのお店で出されてもおかしくないような立派な出来、我が家のは逆に、どこのお店でも出来ない、ちぎった生地をクリーム入りのボウルにダンクする豪快な食べ方。デコレイトが面倒だっただけだが。そういう食べ方をさせる店もそのうち流行り出すだろう。

年末の喧騒にかまけて、新聞もネットも、本当にどうでもいい記事で溢れている。朝日新聞、慰安婦問題の説明に第1面からあんなに紙面を使う必要があったのか。そんなものは自腹で別刷りを出すべきだったろう。むしろトップには、それでも慰安婦問題はある、という主張をカウンターで出さなければいけなかった。

どうでもよくないニュース。厚生労働省は24日、ミツバチの大量死の原因であるネオニコチノイド系農薬「クロチアニジン」の残留基準を緩和する案を了承云々(朝日デジタル)。住友化学がもっといろんな野菜に使わせたいと申請していたらしい。世界の潮流からは規制が厳しくなっているネオニコチノイド系農薬、将来的な禁止を見据えての在庫処理ではないのか?それを喰わされる人々には深い同情を禁じえない。

何が入ってるのか判らないもの、もう食いたくない。それだけで充分、こっち(自給自足)に来る理由になる。早くしないと死んじゃうよ。今年ももう、1年過ぎちゃったんだからね。

寒波と一人一票の関係について(あまり関係ない)

12月8日(月) 晴れ 気温 -7/10℃

寒波なのか毎年こんなものなのか、4度目の冬にしてはっきりと判らない。今朝の最低気温、氷点下7℃。気象協会のHP内、「麻績村のピンポイント天気」には、-4/6℃ということになっているが。そういえば、NO作業日誌は冒頭に日付と気温を記す書式だったのを忘れていた。今日から復活。畑の様子は、

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つい数日前美味しく頂いて、まだしばらくいけるなあと思っていたルッコラ。右側、聖護院大根は寒さに強いと書いてあったけど、、、

 

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霜に当たると甘味が出るという信州高菜。こうなるともう、霜に当たる、とは違う別の、、、

 

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麦の仲間では最も寒さに強いらしいライ麦。畝間の雑草、この状態のときに踏むとポキポキ折れる。もちろん、麦踏なんぞしてはいけない。昨年、落穂から自然生えした株が素晴らしい成長ぶりだったので、5列のうち3列は脱穀した種(麦粒)を播き、2列は穂をちぎって播いた。いまのところ、期待とは逆に粒の方が勢いがある。

 

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ブログの巻頭イメージの日本ミツバチのみなさんは、桑の木の下で越冬中。もう畑だか雪の原野だか判らない。雪がなくても畑だか原野だか判らないけど。

判らない、といえば、最高裁判所国民審査だ。審査広報は読んだ。が、ほとんど判らない。なぜ、同一の事件についての判断の違いが比較できるようになっていないのか。唯一、参院選の一票の格差問題だけは比較できる。だが内容はよく判らない。

俺は、一票の格差はあって当然だと考える。一人一票(農村では「一人一俵」、つまり国民に一人当たり60kgの米を分配する運動だと思っている人が少なくない。それで彼らの主張は、「一人一俵じゃ足りねえズら!」というものである)は妥当なのか。流した汗のぶんだけ票をもらえる、とか、人知れずこぼした涙の数だけ、というのではいけないのか。いっそ各人の体積に比例して票を与えるというのはどうだろう?選挙前には国民的な暴飲暴食が行われて、飲食店の売り上げは飛躍的に伸びる。おっと、これではアベノミクス第4の矢の提案になってしまう。

インテリ連中はIQに応じて配分しろと言うし、拝金主義者は資産に見合った票を要求するだろう。票の売り買いを公に認めろという、政治屋さん達がいるかも知れない(公に認められなくてもそれほど困ってないみたいだけど)。少子化問題対策としては、性交渉を持った相手の数を考慮するというのも大人の提案だ。1haあたり1票の国土中心の発想があってもいい。いずれにしても、小選挙区制度よりはよっぽどましだろう。

全くふざけているわけでもない。大体、よーく見ると、「一人一票」という字は何だか人を小馬鹿にしてやがる。過疎地の票を大都市に回す「一人一票」がどうして平等といえるのか、筋道立てて説明してみろといいたい。大都市と、その支配者を利するだけの、都市の欲望。当然、経団連も経済同友会も賛成(この人たちはTPPにもものすごく賛成)している。小選挙区制のもとで「一人一票」が実現するなら、それは悪夢の中で見る悪夢だ。問題は、悪夢であれ悪夢の中で見る悪夢であれ、それぞれの悪夢を異なる時間軸上で見る事はできても、悪夢が悪夢の中で見る悪夢を包括する状態を見ることはできない、ということだ。

繰り返すが、全くふざけているわけでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

雪と毒薬

もうとっくに来てたんだけど、改めて冬が来た。雪も降って。

昨日の朝もうっすらと積もって昼には融けたんだけど、今日は消えない。

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裏庭には4羽鶏がいるんだけど見えない。

昨日昼過ぎの晴れ間のうちに少し薪割りしといたのがせめての慰め。まだ全然足りないけど。NO作業もだんだん出来ることが減ってくる。畑は大根とカブ、高菜の収穫、田んぼは水路の増し掘りをとっとと終わらせて水を張る予定なんだけど、、、苗代には刈り草をどっさり入れて草除けにした心算が、保温効果か、スズメノテッポウがごっそり生えてしまった。来年も苦労しそうだ。

遅まきながら種採りもボチボチ。

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ズッキーニ、ココゼリ。8月に着果して放置、10月末に採ってからまた放置していたけど、全然腐らない。試しに食べてみたけど何の味もしない繊維の塊だった。

 

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これはトマトフルーツピーマン。これ美味い。肉厚、パプリカみたいな甘味。扁平で安定するから肉詰めがきれいに出来る。移住後めきめきと料理の腕を挙げ続ける生き物係さん作、自家製全粒粉(南部)のドーナツ添え。手違いで米粒が混じっているけどそれがまたプチプチして美味しい。

 

明日は全村一斉野鼠駆除の日。ヤソ駆除、という。この時期、農協では「ヤソジオン」という毒薬のセールが行われている。うちでは今でも鼠退治は猫がする。毎年この時期、毒を喰わされた鼠を猫が喰ってしまわないか、ハラハラする。

鼠に限らず特定の種が増えるのは自然界のバランスの崩れの現われだと思っている。農村で言えば、農(毒)薬で天敵が激減するとか、単一栽培の結果それを餌にする単一の動物虫類が爆発的に増えるとか。

今年の春、マイマイガの毛虫が大発生した時、麦畑で毛虫取りをしていたら地元の老人が通りすがり、

「毛虫も増えるわけだよ、鳥の聲が全然聞こえねえだもの、あのピーチクうるせえ小鳥がよ。朝から晩までひっきりなしに毛虫を雛のところに運んでた鳥が、全然いなくなっちゃったんだもの。農薬撒き過ぎで、みんな死んじまっただよ。」

と言っていた。語尾の「~ただよ」は『母さんの歌』でも有名だが、かつて或る評論家がロシア文学に頻繁に登場する「~ただよ」「~でごぜえますだ」という農民の語り口を、どこにも存在しない似非方言だと腐していたのを読んだ事があった。彼は長野県を訪れたことが無かったのだろうか。いや話が逸れちまっただよ。

農業への関心が高まっているという話をよく聞く。「農」への憧れは、ゴルジNO場のスローガンではないけれど(いやスローガンなんだけど)、「NO」=NO農薬、NO化学肥料、NO機械、NOモノカルチャーに向かう一方、「業」への関心は大企業の乱入を軸にした合理化、営利収益の増加とか、遺伝子操作作物の実用化とか、いかに金を儲け(て知ってか知らずか胴元にゴッソリ上がりを献納す)るかに収斂する。

今回の選挙ではTPPの話が聞こえてこない。人間の数の上からは反対している人の方が多いと思うんだけれど、元祖TPP推進の民主党、現旗振りの自民党が、無いものとして扱うのは当たり前として、共産党の反対にも農協ヨイショ以上の本気を感じない。といっても、選択肢は共産党以外ないので仕方がない。

大体、国政選挙は資金のある政党がバックについていないと立候補も出来ない仕組みだよな。金があったとしても、今回みたいなドタバタ解散総選挙ってやり方(今回に限らず常道化している)だって、普通に働いてる人は仕事の都合で立てないだろう。政治屋の内輪のイベントだよ。解散は年度末、くらいの縛りは必要なんじゃないか。あと供託金!庶民の味方を標榜する共産党は供託金制度にしっかり反対してもらいたい。供託金集まってるぞー、みたいな選挙活動経過報告出してるから無理かな。まあ、とりあえず今回は頑張って欲しい。

いや結局話が逸れっぱなしだな。それもちっちゃく。

今夜も反省を火にくべるか。

11月22日の地震

寝入りばなで無防備な着衣だったせいもあり、移住後初めて不安を感じる揺れだった。揺れてる時間もやや長かったから、今避難てことになると寒いよなあ、なんてことを考えていた。揺れが収まってから、村の有線受信機が「大地震です、大地震です」と放送を繰り返す。大地震でしたよ、確かに!と緊張してしばらく続報を待っていたが、それっきりでおしまい。ちょっと肩すかしを喰らったようで可笑しくなってしまった。住民を落ち着かせて、パニックに陥るのを防ぐのが目的だったのかもしれない。

テレビがないのでそれ(大地震です!)以外の情報もなく、疲れていたこともあってすぐ寝てしまった。3.11の時も昼寝をしていて、それこそ命の危険を感じる揺れだったが、何度か余震をやり過ごしたら猛烈な眠気に襲われて再び眠ってしまった。この点に関しては危機管理が全くなっていない。あまりの恐怖で心理的な逃避行動を引き起こしたのだろうか。いや危ない。

少し反省して非常食の備蓄を兼ね、今日は人参を掘り上げた。

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筑摩野五寸。溝播きの播種直後に大雨で土砂をかぶる悲劇があったが、細々ながらの自給には足りる程度に出来たんじゃないか。ガツンと人参の香りがあってとっても甘い。

人参の隣には春に播いて散々虫に食われ、ほとんど茎だけにされたルッコラ(左の列)が素晴らしい復活を示して花盛り、ミツバチの貴重な蜜源になっている。

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その隣、聖護院大根と信州高菜。煮てよし、焼いてよし。

とりあえず、種類は少ないが、食糧の備蓄はまあまあ大丈夫。NO業やっててよかった。

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キノコも採(盗)ったる!(by 生き物係)

 

 

 

 

山のなめこ

原木なめこが出てきた。遮光シートが薄くて、まだ日当たりが良過ぎる。このところ雨が降らないので、なめこ(ナメコ、とカタカナにすると、ナメクジを連想する)らしいヌメリも控えめ、そのぶん扱いやすい。

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都会のスーパーで売られている「ナメコ」は、茶色で、小指の先くらいの大きさ(上の画像でいうと奥にチョボチョボ出てるやつ)だから、昨年まではそのくらいのを採って食べていた。が、今年、長楽のキノコ名人のキノコ採りを手伝った際、なめこは傘が開いて黄色っぽくなった頃が採りどきらしいことがわかった。親子の間でも多くを語り合わぬというキノコ採りの世界であるから、しかと聞いたわけではなく、名人が採れたなめこを選り分けながら浮かべる笑みのニヤニヤ具合からそう推測した。近隣の直売所でも、やはり傘の開いたなめこが目に付く。ヒラタケも同様、都会なら見切り品に回されそうな傘の開ききったものが美味しいとされている。思うに、都会に限らずスーパーに出回る工場生産品は、こじんまりとパックしやすいこと、つまり流通効率の高さの方が、おいしさよりも優先されているのだろう。

今日は大鍋に2杯分ほど採れた。そういうとき、昨年は調理や保存に大変な手間が掛かっていた。今年は直売所に出せる。そして、期間限定だが、キノコは野菜よりも売れ行きがよい。

玉葱苗、にんにくの植え付け、麦播き、豆の収穫と、仕事は山ほどあるが、キノコに夢中になっているとつい、他の作業がおろそかになってしまう。米の脱穀もまだ終わっていない。

トマト

tomato

山の紅葉も始まり、トマトの収穫もあとわずか。過熟、未熟を含めてトマトソース用に集めた。藪に埋もれたのを探せばもう少し採れそうだ。

画像左、柿のようにも見えるアロイトマト。実の成長が止まってから熟すのに1ヶ月くらい掛かった。今春、種は軒並み品切れのところ、「たきちゃん自然農園」で自家採種されていたのを貰った。味はキリリと締まった桃太郎、切ってみると桃太郎の系譜であることがよく判る。ざるの中、手前細長いのがサンマルツァーノ、小さいほうがマティーナ、やや大きいのがメニーナ。サンマルツァーノ、マティーナは一昨年からの自家採種、じゃなくてこぼれ種の自生え。マティーナ、甘味も酸味も乏しくて採らずに放置していたのだが、最近食べてみたら少し美味しくなっていた。メニーナも、好みからいえば酸味が少ないが、マヨネーズがよく合う。NO場にはもう1種、野生化したミニトマトがあり、こいつが果物のように甘い。たわわに実を着けていたところに台風の大雨で、あらかた割れてしまったのが残念。

今日は日当たりの良過ぎるナメコ原木に減光ドームを付けた。写真はまたいずれ。

2014年の稲刈り

稲刈りが終わった。今年は隣村にも田んぼを借りていたので、田植えから稲刈りまで、去年までよりもだいぶ時間が掛かった。いろいろな条件で稲を育てることで経験の蓄積に利するところがあったかも知れないが、それ以上に疲労が蓄積した。

今年の田んぼは初めての冬期湛水と不耕起、もちろん無農薬、無肥料栽培。品種は「ササニシキ」。子どもの頃に食べていた懐かしい(と言っても味は思い出せない)お米だ。収穫量は、去年の倍!と思っていたが、記録を見ると、そんなに変わらないか。

2013年、「はえぬき」と品種不詳の糯

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今年は、糯の「ミヤギコガネ」、

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と、「ササニシキ」

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どっちの田んぼも、今年は草がびっしり生えてるなあ。総括はまた後日。やりかけてたんだけど徹夜になりそうだから今日はやめる。ひとつだけ、今年はちゃんと種籾を取っておこう。

たまには二人で記念撮影。

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ミツバチの話

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ミツバチがいなくなったよ、と言われて、そんな馬鹿なと巣箱を見に行くと、巣門の下辺りで20~30匹くらいのミツバチが死んでいた。草に覆われているところを良く探せば、死者の数はもっと増えるだろう。いなくなったというのは大袈裟だったが、確かに悲しみのやり場のない出来事だ。

ところで、ここ麻績村には、高冷地の南斜面(ゴルジNO場は東斜面で日の入りが早い)という地勢を利用してリンゴ園があちこちにある。リンゴ畑のそばに住んでいる人なら誰でも知っている通り、リンゴの殺虫消毒にはSS(スピードスプレイヤー)という、一見かわいらしい農業機械が活躍する。おもちゃの消防車みたいなこいつが、どっこい、ゴウゴウとすさまじい音を立てながら(たいてい日曜日の朝6時頃)高さも幅も数メートルに及ぶ農薬の霧を吹き上げながら、リンゴ園の中を進んでゆく。21世紀の現代の話だから農薬と言っても毒性は厳しく規制されて、、、おや、作業している人たちの服装が変だ。どこかで見覚えのある、、、そうだ、福島第一原発が地震でメルトダウンした直後、マスコミにしばしば登場していたあの防護服にそっくりだ。

というような事情は、リンゴ畑のそばに住んでいない人たちは、考えたこともないだろう(俺も街場に住んでいたときは、想像できなかった)。今では他人がリンゴを皮ごとかじるのを見ると、ああ、あのリンゴが今、この人の食道を通って内臓に取り込まれていくのだなあ、と、ある種の驚異の念に打たれる。

ミツバチの死因は判らないままだろう。分かっているのは、SSの直後にたくさんのミツバチが死んだという、それだけのことだ。

その手に触れるものを疑え。その手で触れているという事を、感じることから始めよう。

台風と花豆

10月6日 雨のち晴れのち曇り

夕べの大雨の余韻で朝は雨。寒い。午前中は寝て過ごす。疲れているせいか、いくらでも眠れる。
昼前に晴れ間がのぞくようになった。時折すさまじい突風が吹きぬける。ナメコの原木のシートを剥がしっ放しだったのを思い出し、陽が当たる前に被せに向かう。

豚舎への坂道を登りながら畑を見渡すと、何か違和感がある。もしや、花豆が倒れているか。そうではありませんようにと祈りながらシート掛けしていると、生き物係さんが叫ぶ声が聞こえてくる。やっぱり花豆か。支柱ごと倒れて、茎が根元近くから引きちぎられてしまった。何割かでも、このまま成熟、乾燥してくれないものか。

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二週間前の元気な姿。ちょっとバランス悪いなあと気にはなっていたけど、補強しなかった。豆でもキュウリでも支柱を立てるものは、最初から補強が要らないように立てなきゃいけない。

花豆が予想以上に育ちすぎたせいもある。近隣の花豆はもっとがっしりと、莢の数も抑え気味に作っている。大きく、実の数が着けばいいってもんじゃない。

自給自足を標榜するゴルジNO場の中で、この花豆だけは換金目的で育てていた。何箇所かあるうち、一番元気に育っていたのに。しばらくため息が止まらなかった。

ため息ついてる場合じゃない。やる事は山ほどあるんだ。その割には昼寝してたわけだが。玄関先、勝手に芽を出して立派に育ったカブのように、頑張ろう。頑張れるかな。

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蝶のように舞えず、蜂のように働く。