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国家

11月16日 晴れ −3/10℃

他人の命を大切に思う人々は少なからずいるに違いないが、他人の命を尊重することを行動で示す「国家」は地球上に存在しないことが明らかになった。

新しいパソコン

4月13日(月) 雨 2.5/17℃

新しいパソコンを買った。買ったのは生き物係さんだが。贅沢をしたわけではなく、今までのレノボのデスクトップが壊れたから、泣きたい気持ちでの決断だった。ちなみに、壊したのも生き物係りさんだ。いや、壊したんじゃなくて、パソコンの破損に運悪く、フィジカルに関与してしまっただけだ。ハードディスクは動いているようだが、液晶のひび割れで見えない。サービスセンターに電話したら、最低に見積もっても買った値段より高くなるらしい。「うーん、そんなに掛かりますか、、、」としばし言葉を失っていたところへ、「修理に関するそのほかの情報も、弊社のウェブサイトでご覧いただけます」と担当者君。御社のウェブサイトを見るパソコンが壊れて困っているんですけどね。スマホで見れます、という意味で言ったのだろうが、スマホもないからどうしようもない。丸一日我慢して、次の日にはもう買いに行ってしまった。意外とPC依存が深まっているようだ。壊れる前日、来年の確定申告用の収支内訳書がオープンオフィスで計算できるようになりかかっていたのも我慢を挫いた要因のひとつ。

液晶一体型を押し倒して壊したので、今度は倒れないノートを選んだ。メーカーはASUS。家電屋で見かけるようになったのは最近だが、以前使っていた自作PCのマザーボードがASUS製で親しみがあった上に、一番安かった。WIndows8はしかし、スマホみたい(想像)で違和感がある。スタートメニューの勝手に起動しているアプリを削除してFireFoxを入れたら落ち着いた。AVASTのセキュリティーソフトもすんなり再登録できた。あとは昔のデータをぼちぼち救い出す方法を考えよう。

データのバックアップは本当に大切だ。でも、またやらないんだろうなあ。目の前の移り変わりを追いかけるのに精一杯。

春、東京・沖縄(ここはまだかも)

3月23日(月) 晴れ一時チラ雪 -1/10℃

また氷点下に逆戻り。北の峰から雲が屋根をかすめるように飛んで、小雪が舞う寒い一日。晴れてもなんだか初冬のような緊張感。夜九時現在マイナス2.5℃だ。週末からは暖かくなりそうだが、なるべく期待しないでおこう。

昨日、「安倍政権NO!大行動」と題するデモがあったらしい。主催者発表で14,000人は少し寂しい気もするが、こっちはそんなことも知らずにのらでアクセクしていたんだから、参加されたみなさんの健闘を称えよう。俺も奴らの資金源を細らせるように、対貨幣経済サボタージュ運動に日々これ励んでいるわけだ。励まないことに励む。

もうひとつのいい知らせ、辺野古埋め立て反対で当選した後になんか押しが弱かった翁長知事が、沖縄防衛局に作業中止を指示(琉球新報)。政府の反応はいつものように

「・・・これに従わず、作業を継続する構えを見せている。菅義偉官房長官は23日午前の記者会見で「粛々と作業を進めていく」と強調した。」

真面目そうな人が真面目に言うから本当に怖い。暴力を含む実行力を持った権力側が使うべき表現じゃない。もしかすると、菅氏は隠れ反対派で、国民を立ち上がらせようとしてわざと挑発的な言い方をしているのかもしれない、と思わざるを得ないくらいの最大限の傲慢な発言だ。俺の傲慢さなんか、かわいい子猫ちゃんだ。ニャ~オ!

 

 

死のある風景

2月20日 金曜日 晴れ -5.3/8.9℃

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この頃足を向けない田んぼの方へ朝の散歩。この道は木立の日陰で雪がなかなか融けない。我が家の周りはもっと雪深いが、、、。道端に何か転がっている。

 

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骨だ。まだ所どころ肉がこびり付いている。画面左に向かって口をあけているカメか何かの首のように見える。だがこれは鹿(だったもの)だ。左側に骨盤、右に向かって背骨。胸椎の途中で引きちぎられている。

左手の雪原(雪の下は開墾途中の畑)に無数の獣の足跡、足跡の乱舞の中心に黒っぽいものが横たわっている。

 

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この残骸も、雪上の足跡がまだ残っているうち、数日のうちに跡形もなく消えてしまうだろう。死は、その時偶々それを免れた他者にとっての祝祭。死者はいったん命を失い、「モノ」になることで他の誰かの命を養う。いったん失われた命はどういう形であれ、再生するのだろうか。この迷いに関して、また迷いに関与しうる点において人間だけが特権的に愚かだ。

 

sikanogyakusatu (1)

 

知ってるだけ

相手に殺す気がなくても、何かの拍子に割合簡単に死んでしまうこともあるな。なかなかしぶとい例もまた同じくらい多いけど。俺も50年近い年月をよ くぞ生き延びてきたと思う。生きていること自体は奇跡的なのに、あんまりたくさんの人がそうやって生き延びているから、ありがたみは薄れてしまう。感動的 な番組や投稿がテレビやネットに溢れているから、もちろん、誰だってそんなことは知っている。けれど、知っているだけならこの世界は要らない。

「知っている」を誰かに見せてみろ。おっと、見るだけ見るだけ。相手が「知っている」に手を出そうとしたらサッと懐に引っ込めてやさしく撫でてみる。「知っている」は無事か?ちょっと声を掛けてみろよ。おい、「知っている」。

「、、、?」

聞こえないのか、知らんふりなのか、そっぽを向いてるのかたまたま斜めに置いてあったのか。判らない。

おーい、「知っている」!

「、、、。」

そいつをながめる事はできる。触ったり、ちぎって口に入れたりしたっていい。でも、何かをきく事はできない(暇ならきいたっていいけど)。

「知っ ている」には旅をさせろ。かわいい「知っている」は世間にもまれて押しつぶされ、引き伸ばされ、引っ搔かれ、ボロボロにされて、いつに間にか「知らない」 になって帰って来るかもしれない(いや帰って来ればもうけものだ)。そういう「知らない」を、今度は知っている、と言い出すと、始めから同じ話をいくらで もグルグル続けることができて、他の仕事に手がつけられなくなってしまう(ほかに仕事があるなら心配だ)。

自分の「知っている」が、よく知らない何かになるのがいやで、「知っている」を鉛に詰めて相手にズドンとぶちまけるのも、昔からよく知られたやり方で、廃れる気配もない。

マスメディアに煽られないために

外は吹雪。といったら豪雪地帯の人に笑われるか。それでも大雪に違いない。明日も雪掻きで半日過ぎてしまうだろう。傍から見れば、のんきな暮らしぶりだ。

先週、ほとんど全体主義と間違えそうな(間違いであってほしい)「私はシャルリ」の大行進(があった、という報道)を見て、反射的に「私はシャルリ」ではない、ということを書いた。その後の続報に接しても、やはり「私はシャルリ」ではあり得ない。

大行進の報道の中には、反テロの名の下パリに集結した各国首脳(つまり各国軍隊ー国際的な取り決めで殺人が認められているーの最高司令官たち)が群集と共に歩く、なんて解説をつけた記事もある。が、右欄にリンク先張ってある「マスコミに載らない海外記事」には、これがでっち上げだとの記事が。リベラルだと思っていたハフィントンポストも、この「でっち上げ」の御輿を担いでいる。http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/11/paris-rally-je-suis-charlie-hebdo-terrorism_n_6453472.html

写真を見ると、印刷され配られた「JE SUIS CHARLIE」のプラカードがちらほら。集まった人全員が私はシャルリ、という訳でもないんじゃないかと、当たり前のことに気づく。フランス人はとりあえずデモには参加するんだというような話を思い出した。

彫像に攀じ登って旗を振る若者たちの高揚した笑顔。これはなんというか、出撃する兵士、あるいはそれを見送る人々を想像させる。或いはスポーツスタジアムの観衆。同じようなものか。スポーツは戦争だなどと言ってしまう、社会的に名士とされている人も大勢いることだし。

集団的熱狂は、どんな端緒であれ(例えばオリンピックとか)、いつも「大きな者」に利用される。熱狂は個人の裡に、せめて内輪の楽しみに留めておくべきで、公共の場での熱狂は注意深く慎まなければならない。

俺は前の投稿の時点で、シャルリエブドを襲ったのがイスラム教徒の若者だという報道を鵜呑みにしていた。上記「マスコミに載らない海外記事」で紹介されている独立系ジャーナリストの記事には、これを陰謀だと指摘している。ウェブで得られる情報を比較する限り、一般に流されているニュースよりも、この陰謀説に理があるように思う。事件の一週間後、オランド大統領が対イスラム国戦争に原子力空母派遣を表明。フランス国内では批判しづらい世論が支配していることだろう。世論の向きは、それを吹き込む声の大きさで決まる。

30年近く昔、ある予備校講師が「新聞、特に社説を毎日読むと馬鹿になる」と言うのを聞いて驚いた。当時は新聞にも記事にも無批判に権威を感じていたものだ。その後主に貧乏が理由で新聞を読む習慣がなかったが、この頃になってお隣さんから一日遅れで頂くようになったから、新聞を毎日読むようになった。社説も一応目を通す。そして、「新聞を毎日読むと馬鹿になる」というのは、信じやすく、多分に権威に弱い傾向のある若者に対する忠告としては、大変正しかったと感謝している。

 

「私はシャルリ」とは言えない

言論の自由に関する権利は、護られるべきものであって、振り回すものではない。

言い回しの巧みさと、声の大きさは「言論人の武器」である。そのような「武器」を非言論人に向けて使うことが、何故おおっぴらに、文化的行為のようなふりをしてまかり通っているのだろう。非言論人が彼らの「武器」を使って反撃してくるのを十分に予想しながら、何故、挑発的(で英雄的)な悪ふざけが続けられるのか。非言論人の「武器」の生産企業に資金が廻るように仕向けるのも「言論人の武器」の重要な役目だから、その「武器」を流通させ、実際に使わせる必要があるのかもしれない。

殺人を擁護する心算はない。つもりはなくても遺憾ながら態度で示している場合もある。

空爆で人を殺すのは、毎日まいにち繰り返される、軍隊による虐殺行為は、何故許されているのだろう。許されていないはずはない。許されているのだ。物言わぬ民衆によって。

「私はシャルリ」の旗を振って先頭を行く者たちは(そしてゾロゾロと行列に並ぶ人たちも)、「私は負けない」と叫んでいるらしい。

勝ち負けの問題か?

 

脱力の力

脱力しよう。肩の力を抜いて、軽々と鍬を振るおう。大きな石とは闘うのではなく戯れよう。動かせない石があるおかげで、別の形が見えてくることもある。