空想とまなざし:世の中を見るやり方について

2021年7月30日 晴れ時々曇り夕方から雨、一時激しく降る

相変わらずどこの天気予報もあてにならない。 ウェブの気象データを睨んであたりを付ける方がまだましなくらい。予報も「大多数」を相手に「大局的」にやっているんだろうから仕方がない。小数、個別はそれぞれ各自でやればよろしい。データが公開されているということは本当にありがたい。

昨日29日の朝日新聞26面の隠岐さや香氏のコラムで引かれていた、「物理学史に名を残す」ダランベール(名前は聞いたことあるけど、、、)の言葉を孫引きする。

「接種は国家にとって国民の人口の分だけ試せる賭けだが、個人にとっては1回しか試せない賭けである。」

心配するのは非合理的ではない、無理強い(義務付け)はできない、と続く。国家とはこの場合為政者、お上のことである(なんで”家”なんだろう。ロマノフ家とかブルボン家、天皇家の家と関係あるのか。もとの言葉は”国”と訳していいのだろうけれど)。ダランベールがどこでどういう意図でこう言ったのかはさておき(さておいていいのか)、国は常に大数の論理、統計的な発想で考える。ワクチンを打つメリット、と国が言う時、日本のように1億の人口があれば、千人くらいは犠牲が出てもよしとする(そうしているようにしか思えない)。トランプが新型コロナ流行初期に、何万人なら死んでも「うまくやっている」と言ったか思い出そう。何万人だったっけ。

これは、国や菅義偉が悪いのではない(悪いんだけど)。誰でも、1億という数を相手にすれば、同じような考え方をせざるを得ない。じかに見ることのできない相手を遇するには空想に頼り、空想はしばしば妄想に侵される。やっぱり国という集合の規模が大きすぎるんじゃないか。一握りの責任者が取りしきれる範囲を超えている。日本の場合責任者すらどこにもいない。権力者だけがいて。つまり(つまってるのか)、人間のまなざしで見つめることのできる大きさではない。

たまに人間らしさを保ったまま全世界を見つめるかのような事を言う人がいるけれどあれはあやしい。そういう人に、あのもしオラのことも見えてるだかね、と尋ねるとおおもちろん見ていますよ、と優しく微笑む。もちろん、個別に見ているのではなく、全体的俯瞰的に眺めているのだ、周辺視野で。ところが人間はやはり個人として焦点を合わせてもらいたいから、俺のことは見えるか、私はどうだ、と次から次、ひっきりなしにその人に尋ねる。初めは仏の顔でええ見てますよ、なに、心配しないで、とニコニコしていたその人も、何万人と押し寄せる衆生を前に疲れ果ててしまい、とうとう目を半分閉じてしまった。仏様が半眼なのはそういう訳なのだ。四十数年前に鎌倉観光のバスガイドさんから聞いた話である。

脱線してるうちに考えていたことを忘れた。それ、問題は政権交代じゃない。天皇制の問題が男系女系じゃないように。オリンピックの問題が観客の人数でもないように。政権はあっていいのか?

話題を変えよう。これはタマゴタケ。夏に採れる貴重なキノコ。歯ごたえがあってバターで炒めるとうまい。食感はニギリタケと似ているかな。割と毎年同じところに出るんだけど、林道の手入れが行き届かないと、去年散歩ついでに寄れた場所が今年は鋸と鉈で切り開かなけりゃいけないてなこともあって、暇のない年は食卓に上がらない。今年見つけたのはたまたま。人生大体たまたま。という本『たまたま The Drunkard’s Walk』を最近読んでる。それで大数の論理という言葉はここから借りてるんだと思う。読んでたけど、NO繁期真っ盛りに突入したうえ、ヤギ仕事がまだ増えそうだからまた冬まで読めないだろう。

 

新じゃががうんと穫れた。生き物係さん(長いので今後「ブラック・ジャッ子」に改める。もっと長い)の収穫だけで去年より多いそうなので、これから掘る私の分を入れると、もうジャガイモ三昧だね。各種麦類も自家用にはまあまあ穫れたし、5月ごろに途絶えてしまった「黒パンとジャガイモの日々」再び。