夏の終わりに

2019年8月26日 晴れ 17/27℃

prepare, you sweet flower, for winter advances,

汝うるわしき花よ、近づく冬に備えよ、

という歌がある。邦題はたしか「夏の終わりに」だったか。秋をすっ飛ばして夏からひと息に冬になってしまうようなイメージに軽い違和感を持っていたのは昔の話。短くも耐え難い暑さはお盆が過ぎると祖霊(信じてないけど)とともに黄泉に去り、8月も後半になれば冬支度の段取りを考え始める(毎年上手くいかないけど)当地では、夏と冬は隣り合い、その間に秋の気分が軽く漂う(漂わない年もある!)。夏の花は季節の移ろいに色あせてゆくのではなく、冬の寒さで枯れるのだ。おお高冷地!

よく晴れた一日。青空の下で仕事をしても汗まみれにならない。おお信州!

夏野菜はかつての勢いをひそめ。間に合わせで作ったキュウリ棚が種採り果の重みで倒伏。間に合ってなかったらしい。トマトがやっと色付いて食卓に上がる。

昨年不振のカボチャが元気だ。キュウリもそうだが、ウリ科の蔓はだいたい進んでもらいたくない方向に伸びる。放任しているが、ほかの作物や通路の邪魔になる蔓は切らざるを得ない。そういうところには必ず実が着いていて、はさみを持つ手の動きが鈍る。時に長考に及んで他の作業にしわ寄せがいく。長考に及べば大体、関係のないことに妄想は移る。NO業生活至福のひと時。

田。以下画像は全て23日。

黒糯がずいぶん遅れたけど全面、穂が出揃った。養分のバラつきなのか、背の高さが波打っている。

豆畑。

手前はナス。木は育たなかったが、着果はまずまず。晩生の丸ナスがこれから頑張ってくれるのか。頭でっかちのひまわりが今日は豆の上、ペポカボチャの上に倒れ込んでいた。ここでもカボチャの蔓は予定の中央方向へは伸びず、真ん中が無駄に空いている。

守田。

ささげやキドニーをツイツイ収穫。地道にコツコツ。脱穀、選別も手作業。この労力を考えると、豆の値段はすごく安い。効率よくドバーッとやろうとすれば、環境負荷もドバーッと増える。もっと楽して増収、という甘いささやきを、額の汗と一緒に拭い捨てる。捨てたものを未練がましく横目で見ながら。

ともあれ、夏は乗り切った。秋風をうれしく感じながらも、冬野菜の種播き、どころか畑の準備も終わってないことに少し焦る。prepare、俺。

風立ちぬ。でも台風のせいかも。

8月12日 22/35℃ 晴れ 山の日の振替休日(猫の日やヤギの日はまだないか。「私の日」という祝日を作ってみんなが自分の事を深く考えるきっかけにしたらどうか。そういう意味では「あなたがたの日」の方が意義深い。私が生きるために殺された者たちの日、とか。お野菜の死霊も。天皇誕生日も、「天皇の日」にして、アンチの群衆も祝日を無駄に過ごさなくて済むようにしたい。あっ、「国民の祝日」だから非国民には元から関係ないのか。今日は日航機墜落の日でもあるね。ミサイル誤射説は完全に封印されているね)

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去年は記録的に暑かった、とかあの冬はもう凍え死ぬかと思った、とか、頭の中にはいろいろデータがあるような気になったり、無意識のうちに捏造したりもするが、暑さの記憶も寒さの記憶も、身体は一年も覚えていない。本当に?少なくとも、村暮らしを始めてからはそうだ。

雑司ヶ谷の貧乏長屋の夏は暑かった。ただでさえ暑い亜熱帯の都会の低地の路地のどんづまり、原発反対、と脂汗を流しながらクーラー使うのを我慢して窓を開けておれば、近所一帯の室外機から吐き出された熱風が流れ込んでくる。天然自然とは別の、人為的な暑さ。

あの頃の暑さを体感として覚えているような気がするのは、熱害をもたらした犯人がいる、俺はそいつに苦しめられている、という被害者意識、怨念が絡まりついているせいかもしれない。怨念という、一種の感動「体験」が、記憶と感覚を分かちがたく結びつけて。

ともあれ、この高地では、夜ともなれば涼しい風が流れ、寝苦しさなど無縁の世界。夕べまで一週間くらい寝苦しかったけど、明け方は肌寒くてタオルケットを首まで引き上げ、足元のくにゅ(猫)のお腹に爪先を潜り込ませた。

日差しはまだまだ強いけれど、薄いフィルター一枚挟んだように、ほんの少しよそよそしい。南西の木立の影が、じわじわと領分を広げる。日暮れ前、ヤギたちの草の食べっぷりに焦燥感が見える。

もうヤバいのか?