ヤギの出産について

子ヤギが生まれた。双子の女の子。2週間経って、すっかり大きくなった。

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生まれたのは2月12日の正午過ぎ。牝ヤギのヤーは朝から落ち着きが無く、どこかに行きたがるのだがそれがどこなのか自分でもわからない様子。あちこちで草を食べる。草を食べては何かを訴えるようにメメメ、と鳴く。ヤーの鳴き声は倍音豊か、口はあまり開けないで鼻腔の反響を使っているようだ。数日前から念のために隔離している牡のギーが遠くで絶叫している。ギーはへヴィメタル系のシャウト。いやうるさい事!

出産当日は食欲がなくなる、と本で読んでいたので、今日は無いかな、とも思った。

昼食を早めに済ませて様子を窺う。やはりヤーはメメメ、と鳴き、ギーは日本語の文字では表せない音で叫んでいる。ヤーを好きに移動させてみると、あちこちで草を食べ、草を食べては何かを訴えるようにメメメ、と鳴く。そのうち小屋に入ったり出たりを繰り返し始めた。これはもう、産もう、と思い、ヤーを小屋に導いた。小屋に入ると、今度はヤーも座り込んだり立ち上がったりを繰り返して如何にも産みそうなそぶりになってきた。慌てて敷き藁を足して備える。ちゃんと備えるにはお湯とかタオルとかいろいろ必要なんだけどもうなんだか急に間に合わない感じになってきて、生き物係さんを携帯で呼んだ。

その間もヤーはますます激しく姿勢を変え続ける。横倒れになって片足で床を掻く。声はもはやメメメ、ではなく、ウーン、ウーンと人間そっくりになっている。外陰部が出っ張ったり収まったりを繰り返す。何度目かの横倒れから、舞踏家のようによろよろと立ち上がると、産道から一気に水が噴き出した。破水だ、と出産経験のない人間二人が同時に言ったほど、破水という言葉は事態を的確に表していた。

続いて産道から内臓の一部のような袋のようなものがじわじわと現れ始める。全然胎児には見えないけど、これで合ってるのか、何か違うものが出てきてしまったのではないかと狼狽える。それはセミの羽化のようにじれったい。ヤー、これでいいのか?ウーン、ウーン。

と、袋の濁った液体―羊水、いや山羊水か―の中に鼻づらと蹄のようなものが見えた。よしよし、頑張れ!

やっと顔と前足が見えた所で滞ってしまう。見守るべきだとも思ったが、もしや胎児は肺呼吸を始めてしまっているのではないか、という恐れが募る。袋をそっと引っ張ってみる。動かない。肢を引っ張ろうにも袋のぶよぶよに阻まれてうまく掴めない。ヤーの力みに合わせて助けにならないかも知れない手を貸す。ヤー、頑張れ!ウーンウーン。

と、袋がズルズルと排出され、ボトリと落ちた。出たー!

膜の中に仔ヤギらしきモノがある。見守るべきだとも思ったが、もしや胎児は肺呼吸を、、、と焦り、膜を引き千切る。仔ヤギが出てきた。ヤーが子どもを舐めたり、袋を喰ったりする。うーん、可愛いというよりは怖い。

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ベトベトになった手を洗いに家に帰り、追加のお湯を持って戻ると仔ヤギは二頭、生まれていた。

 

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よりによってこの日から1週間、玄関先で毎朝氷点下11~12℃を記録した、この冬一番の冷え込みが続いたのであった。間に合わせでこしらえて手直しもしなかった粗末な小屋で、よく頑張ってくれた。子ヤギたち、ありがとう。ヤー、ギー、ありがとう。

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自由は不快を求めるか

室外温度計が壊れて、この頃は調理用の温度計を玄関先に置いている。精度は判らないが、朝7時頃は氷点下10℃のあたり、先月末の一番寒かった時にマイナス15℃を記録した。台所の凍り具合からすると、実気温に対して今までの温度計よりも低目のところを示すように感じる。寒いことは寒い。

年々湿った雪が多くなる。今日などは2月だというのに一時雨になった。厭わしい心持でながめるせいか、ボタン雪が細かいゴミのように見える。服に付いたのを払えば、溶けてじっとりする。どうせ春の陽気はまだまだ先、同じ寒いのを耐え忍ぶならば、もう少し寒くても、軽くて扱いやすい粉雪が降ってくれた方がいい。

夕方、雪が小止みになったのでヤギの散歩に出る。寒々しい枯野もよくよく観れば多年草の若い命が芽生え始めている。地上部は冬にあっさりと死んで、春に新しい姿でまた生き直す。人もよく人生を一からやり直す、などと言うが、こっちは器の造り替えがきかないからそれは己を「擬草化」した思い込みに過ぎない。けれど、思い込む他に何ができるというのか。

夕闇が迫り、気温が一気に下がる。手綱に逆らうヤギを引き摺るように―或いは引き摺られながら―滑りやすい坂道を進む。ヤギの自由を徹底的に奪いながらヤギ達を少しでも快適に過ごさせようと骨を折る。快適であるためには不自由を耐え忍ばねばならず、自由の為には快適さを犠牲にする覚悟がいる。そこには今のところ、快適な自由というものがあるようには思われない。