人生言い訳

2016年5月2日(月)晴れ 7.8/25.6℃

ナス鉢上げ。古い市販の種と去年種取りしたものを播いたが、真黒も小布施も一昨年買った種の方がよく出て育っている。今年は種採りをしっかりやろう。

一週間で山の景色がすっかり変わった。目立たないけど山桜も咲いて。散り始めている。

点在する小さな畑がすっかり草に埋もれて一面の荒れ野のようだ。草が伸びる前に畑の部分だけでも刈っておこうと思っていたが、今年も間に合わなかった。一部は何か小動物の巣穴が掘りめぐらされている。

冬の間にやっておけばよかったのに、今さら鍬の柄をつけかえたり、刃を研ぎ出したりするので今やるべき仕事がはかどらない。鍬が刃物だという事はこのごろやっと実感するようになった。百姓一揆の農民が鍬を武器にしていたのは、鍬がよく切れたからだ。だが本当に鍬を武器にしていただろうか?『カムイ伝』ではそのように描かれている。

夕方からキノコの駒打ち。今日はクリタケ500駒。俺が穴をあけ、生き物係さんが駒を打つ。二人とも、かなり熟練してきた。コツをつかんだと思ったら今日で終わり。よくあることだ。今期は3000駒打った。原木を伏せる場所はまだあまり考えていない。

ゴルジNO場は化学物質を使わないNO法を標榜しているが、よく考えると―なるべく考えないようにしていたのだが―キノコの種菌はきっと化学的な処置を経て生産されているに違いない。駒打ち以降はケミカルフリーとはいえ、厳密には主義に反する行為である。有機の種菌と言うものも聞いたことが無いから、この先も原木キノコに関しては幾ばくかの後ろめたさを感じながらやっていくのだろう。いや、殆ど感じないのが問題なのだが。

善悪とは別の問題だ。そもそも善悪という考え方は成り立つのか。決定的な間違いに直面して初めて、ああ、あれが悪かったのだというふうに思う。その思いすら、その場しのぎの言い訳ではないという事は出来ない。

せめて、感動的なその場しのぎを。