相手に殺す気がなくても、何かの拍子に割合簡単に死んでしまうこともあるな。なかなかしぶとい例もまた同じくらい多いけど。俺も50年近い年月をよ くぞ生き延びてきたと思う。生きていること自体は奇跡的なのに、あんまりたくさんの人がそうやって生き延びているから、ありがたみは薄れてしまう。感動的 な番組や投稿がテレビやネットに溢れているから、もちろん、誰だってそんなことは知っている。けれど、知っているだけならこの世界は要らない。
「知っている」を誰かに見せてみろ。おっと、見るだけ見るだけ。相手が「知っている」に手を出そうとしたらサッと懐に引っ込めてやさしく撫でてみる。「知っている」は無事か?ちょっと声を掛けてみろよ。おい、「知っている」。
「、、、?」
聞こえないのか、知らんふりなのか、そっぽを向いてるのかたまたま斜めに置いてあったのか。判らない。
おーい、「知っている」!
「、、、。」
そいつをながめる事はできる。触ったり、ちぎって口に入れたりしたっていい。でも、何かをきく事はできない(暇ならきいたっていいけど)。
「知っ ている」には旅をさせろ。かわいい「知っている」は世間にもまれて押しつぶされ、引き伸ばされ、引っ搔かれ、ボロボロにされて、いつに間にか「知らない」 になって帰って来るかもしれない(いや帰って来ればもうけものだ)。そういう「知らない」を、今度は知っている、と言い出すと、始めから同じ話をいくらで もグルグル続けることができて、他の仕事に手がつけられなくなってしまう(ほかに仕事があるなら心配だ)。
自分の「知っている」が、よく知らない何かになるのがいやで、「知っている」を鉛に詰めて相手にズドンとぶちまけるのも、昔からよく知られたやり方で、廃れる気配もない。