知ってるだけ

相手に殺す気がなくても、何かの拍子に割合簡単に死んでしまうこともあるな。なかなかしぶとい例もまた同じくらい多いけど。俺も50年近い年月をよ くぞ生き延びてきたと思う。生きていること自体は奇跡的なのに、あんまりたくさんの人がそうやって生き延びているから、ありがたみは薄れてしまう。感動的 な番組や投稿がテレビやネットに溢れているから、もちろん、誰だってそんなことは知っている。けれど、知っているだけならこの世界は要らない。

「知っている」を誰かに見せてみろ。おっと、見るだけ見るだけ。相手が「知っている」に手を出そうとしたらサッと懐に引っ込めてやさしく撫でてみる。「知っている」は無事か?ちょっと声を掛けてみろよ。おい、「知っている」。

「、、、?」

聞こえないのか、知らんふりなのか、そっぽを向いてるのかたまたま斜めに置いてあったのか。判らない。

おーい、「知っている」!

「、、、。」

そいつをながめる事はできる。触ったり、ちぎって口に入れたりしたっていい。でも、何かをきく事はできない(暇ならきいたっていいけど)。

「知っ ている」には旅をさせろ。かわいい「知っている」は世間にもまれて押しつぶされ、引き伸ばされ、引っ搔かれ、ボロボロにされて、いつに間にか「知らない」 になって帰って来るかもしれない(いや帰って来ればもうけものだ)。そういう「知らない」を、今度は知っている、と言い出すと、始めから同じ話をいくらで もグルグル続けることができて、他の仕事に手がつけられなくなってしまう(ほかに仕事があるなら心配だ)。

自分の「知っている」が、よく知らない何かになるのがいやで、「知っている」を鉛に詰めて相手にズドンとぶちまけるのも、昔からよく知られたやり方で、廃れる気配もない。

マスメディアに煽られないために

外は吹雪。といったら豪雪地帯の人に笑われるか。それでも大雪に違いない。明日も雪掻きで半日過ぎてしまうだろう。傍から見れば、のんきな暮らしぶりだ。

先週、ほとんど全体主義と間違えそうな(間違いであってほしい)「私はシャルリ」の大行進(があった、という報道)を見て、反射的に「私はシャルリ」ではない、ということを書いた。その後の続報に接しても、やはり「私はシャルリ」ではあり得ない。

大行進の報道の中には、反テロの名の下パリに集結した各国首脳(つまり各国軍隊ー国際的な取り決めで殺人が認められているーの最高司令官たち)が群集と共に歩く、なんて解説をつけた記事もある。が、右欄にリンク先張ってある「マスコミに載らない海外記事」には、これがでっち上げだとの記事が。リベラルだと思っていたハフィントンポストも、この「でっち上げ」の御輿を担いでいる。http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/11/paris-rally-je-suis-charlie-hebdo-terrorism_n_6453472.html

写真を見ると、印刷され配られた「JE SUIS CHARLIE」のプラカードがちらほら。集まった人全員が私はシャルリ、という訳でもないんじゃないかと、当たり前のことに気づく。フランス人はとりあえずデモには参加するんだというような話を思い出した。

彫像に攀じ登って旗を振る若者たちの高揚した笑顔。これはなんというか、出撃する兵士、あるいはそれを見送る人々を想像させる。或いはスポーツスタジアムの観衆。同じようなものか。スポーツは戦争だなどと言ってしまう、社会的に名士とされている人も大勢いることだし。

集団的熱狂は、どんな端緒であれ(例えばオリンピックとか)、いつも「大きな者」に利用される。熱狂は個人の裡に、せめて内輪の楽しみに留めておくべきで、公共の場での熱狂は注意深く慎まなければならない。

俺は前の投稿の時点で、シャルリエブドを襲ったのがイスラム教徒の若者だという報道を鵜呑みにしていた。上記「マスコミに載らない海外記事」で紹介されている独立系ジャーナリストの記事には、これを陰謀だと指摘している。ウェブで得られる情報を比較する限り、一般に流されているニュースよりも、この陰謀説に理があるように思う。事件の一週間後、オランド大統領が対イスラム国戦争に原子力空母派遣を表明。フランス国内では批判しづらい世論が支配していることだろう。世論の向きは、それを吹き込む声の大きさで決まる。

30年近く昔、ある予備校講師が「新聞、特に社説を毎日読むと馬鹿になる」と言うのを聞いて驚いた。当時は新聞にも記事にも無批判に権威を感じていたものだ。その後主に貧乏が理由で新聞を読む習慣がなかったが、この頃になってお隣さんから一日遅れで頂くようになったから、新聞を毎日読むようになった。社説も一応目を通す。そして、「新聞を毎日読むと馬鹿になる」というのは、信じやすく、多分に権威に弱い傾向のある若者に対する忠告としては、大変正しかったと感謝している。

 

「私はシャルリ」とは言えない

言論の自由に関する権利は、護られるべきものであって、振り回すものではない。

言い回しの巧みさと、声の大きさは「言論人の武器」である。そのような「武器」を非言論人に向けて使うことが、何故おおっぴらに、文化的行為のようなふりをしてまかり通っているのだろう。非言論人が彼らの「武器」を使って反撃してくるのを十分に予想しながら、何故、挑発的(で英雄的)な悪ふざけが続けられるのか。非言論人の「武器」の生産企業に資金が廻るように仕向けるのも「言論人の武器」の重要な役目だから、その「武器」を流通させ、実際に使わせる必要があるのかもしれない。

殺人を擁護する心算はない。つもりはなくても遺憾ながら態度で示している場合もある。

空爆で人を殺すのは、毎日まいにち繰り返される、軍隊による虐殺行為は、何故許されているのだろう。許されていないはずはない。許されているのだ。物言わぬ民衆によって。

「私はシャルリ」の旗を振って先頭を行く者たちは(そしてゾロゾロと行列に並ぶ人たちも)、「私は負けない」と叫んでいるらしい。

勝ち負けの問題か?