秋のNO村と少女たちの声について

稲刈りが終わって、秋らしいカラっと晴れた日が続いてほしいところ、大体どんよりしてたまに晴れ、結構まとまった雨も降ったりする今日この頃。NO作業もアブラナ科の間引きに突入、毎年思うが、種まきを丁寧にやれば間引きがうんと楽になるんだよなあ。播いた頃はまだまだ暑くて半分虫に食われる覚悟だったから、だいぶ厚播きになったのも仕方ない。

大根のおろぬきでほとんど瞑想状態になっていると、上空でカラスが鳴く。見上げれば十数羽のカラスの群れ、にしては鳴いているのは1羽だけ。よく見ると、タカの群れであった。単独で飛来するトンビなら狂ったように追い掛け回すカラスも今は多勢に無勢、たまにカアと鳴いて一応縄張を示威する程度。タカの群れは優雅に旋回しながら北から南へゆっくり移動していった。

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表向きは落ち着き払って、グレタ トゥンベリの足元をすくうのに必死になる政治家たち。予言者のように振る舞う(予言者だと俺は思う)この少女の大衆運動への影響力を怖れているのがよくわかる。誰もグレタの言ったことの中身には応えようとしない。反駁できるわけがない。あまりに真っ当な話だから。大気汚染を云々するために飛行機(それも多くの「要人」たちは専用機で)に乗って集まって来るのが本末転倒なのはわかりきっている。経済成長を止めない限り二酸化炭素(および放射性廃棄物)の排出を抑えられないのはわかりきっている。だがこういうことを普通の人々は本当には分かることが出来ない。分かると社会に居場所がなくなる。分かるのは「一人前の人間」になる前の子ども。セヴァン=スズキの伝説のスピーチというのがネットで見られるが、12歳の少女(いつも頼りになるのは「おんなこども」!)が生態系の危機を世界に訴えてから30年近く、やっぱりほとんどの「おとな」は分かりたくもなかったんだろう。

それで俺には何ができる?所詮、燃えるアマゾンに注ぐハチドリのひとしずくの水。どうせハチドリのひとしずくと言うなかれ。どんなに大きな海の水もハチドリのしずく何倍分と計算することが出来る。と言えば、グレタは、そして子どもたちは、私たちに永遠の時間があるならそういう計算にも意味があるかもね、とやりかえすだろう。おしまいの扉はとっくの昔に開かれている。

無力感。無力感からの逃避としてのささやかな日々の小さい幸せ。

たとえ蟷螂の斧でも。猫の手でも、ヤギの頭突き、俺のNO業。それでいいのか。

 

 

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