風立ちぬ。でも台風のせいかも。

8月12日 22/35℃ 晴れ 山の日の振替休日(猫の日やヤギの日はまだないか。「私の日」という祝日を作ってみんなが自分の事を深く考えるきっかけにしたらどうか。そういう意味では「あなたがたの日」の方が意義深い。私が生きるために殺された者たちの日、とか。お野菜の死霊も。天皇誕生日も、「天皇の日」にして、アンチの群衆も祝日を無駄に過ごさなくて済むようにしたい。あっ、「国民の祝日」だから非国民には元から関係ないのか。今日は日航機墜落の日でもあるね。ミサイル誤射説は完全に封印されているね)

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去年は記録的に暑かった、とかあの冬はもう凍え死ぬかと思った、とか、頭の中にはいろいろデータがあるような気になったり、無意識のうちに捏造したりもするが、暑さの記憶も寒さの記憶も、身体は一年も覚えていない。本当に?少なくとも、村暮らしを始めてからはそうだ。

雑司ヶ谷の貧乏長屋の夏は暑かった。ただでさえ暑い亜熱帯の都会の低地の路地のどんづまり、原発反対、と脂汗を流しながらクーラー使うのを我慢して窓を開けておれば、近所一帯の室外機から吐き出された熱風が流れ込んでくる。天然自然とは別の、人為的な暑さ。

あの頃の暑さを体感として覚えているような気がするのは、熱害をもたらした犯人がいる、俺はそいつに苦しめられている、という被害者意識、怨念が絡まりついているせいかもしれない。怨念という、一種の感動「体験」が、記憶と感覚を分かちがたく結びつけて。

ともあれ、この高地では、夜ともなれば涼しい風が流れ、寝苦しさなど無縁の世界。夕べまで一週間くらい寝苦しかったけど、明け方は肌寒くてタオルケットを首まで引き上げ、足元のくにゅ(猫)のお腹に爪先を潜り込ませた。

日差しはまだまだ強いけれど、薄いフィルター一枚挟んだように、ほんの少しよそよそしい。南西の木立の影が、じわじわと領分を広げる。日暮れ前、ヤギたちの草の食べっぷりに焦燥感が見える。

もうヤバいのか?