自由は不快を求めるか

室外温度計が壊れて、この頃は調理用の温度計を玄関先に置いている。精度は判らないが、朝7時頃は氷点下10℃のあたり、先月末の一番寒かった時にマイナス15℃を記録した。台所の凍り具合からすると、実気温に対して今までの温度計よりも低目のところを示すように感じる。寒いことは寒い。

年々湿った雪が多くなる。今日などは2月だというのに一時雨になった。厭わしい心持でながめるせいか、ボタン雪が細かいゴミのように見える。服に付いたのを払えば、溶けてじっとりする。どうせ春の陽気はまだまだ先、同じ寒いのを耐え忍ぶならば、もう少し寒くても、軽くて扱いやすい粉雪が降ってくれた方がいい。

夕方、雪が小止みになったのでヤギの散歩に出る。寒々しい枯野もよくよく観れば多年草の若い命が芽生え始めている。地上部は冬にあっさりと死んで、春に新しい姿でまた生き直す。人もよく人生を一からやり直す、などと言うが、こっちは器の造り替えがきかないからそれは己を「擬草化」した思い込みに過ぎない。けれど、思い込む他に何ができるというのか。

夕闇が迫り、気温が一気に下がる。手綱に逆らうヤギを引き摺るように―或いは引き摺られながら―滑りやすい坂道を進む。ヤギの自由を徹底的に奪いながらヤギ達を少しでも快適に過ごさせようと骨を折る。快適であるためには不自由を耐え忍ばねばならず、自由の為には快適さを犠牲にする覚悟がいる。そこには今のところ、快適な自由というものがあるようには思われない。