雨 17/24℃
今日も雨。一歩も外出せず。天声人語子、夏はもういらないとか。ビルの一室で机に向かって退屈している運動不足な発想だ。
玄関の上がり口でまた雨漏り。晴れているうちに天井裏をのぞいて見ようと思っていたが、後々のメンテを考えないできっちりと閉じられているリフォーム部分で、天井を突っついてみただけで面倒くさくなって後回しにしてしまった。後でもやればまだいいが。
春先に来たひよこたちが立派に育って、先週からポツポツ卵を産み始めた。卵の自給が復活するわけだ。よしよし。
天気予報はまるで当てにならない。年々当てにならなくなる。なのに気象衛星に膨大な税金が投入され続ける。ほんとに気象衛星なのかといぶかしくなる。打ち上げやら打ち上げ失敗やらで大気汚染に拍車をかける。
衛星写真を見ると、地球環境が人類の生産活動によって加速度的に蝕まれていく様子がよくわかる。ああ、よくわかった、もうこんなことはやめよう、という方向を後押しすればよいのだが、全然そうならない。破滅願望のシニカルな想像力に天からのお墨付きを与えるだけだ。宇宙開発、本当に必要か?壮大な夢を追いかけるのはそれ自体悪いことではないが、巻き添えが多すぎる。畑でレタスでも採っていた方が賢明じゃないのかね。
必要か、と言えばオリンピックもそうだ。宇宙同様マスコミが騒いでいる割にはしらけている人の方が多いんじゃないか。(生き物係さんがさっきから隣で「おやーつ、おやーつ、」と通奏低音―この単語、この頃いろんな文章で流行ってるみたい―を響かせている。おっと、台所に行ったぞ。ナスとズッキーニの揚げびたしを食べ始めた。おいしいけど、甘くはないよな、、、)
オリンピックがいかに政治経済的に蹂躙されているかはもうみんな知っている。それでも知らないふりをしてテレビを見ながら感動しようとする人の群れがある。そうだ、テレビだ。なんか、あまりに単純でこんなこと言うのも恥ずかしいくらいだけど、みんなテレビが悪いのだ(俺も今日はネット動画で人家の庭のプールで遊ぶ熊の親子とか長々と見てたけど。見てたけど、それでやっぱり、人里近くで捕まった熊は奥山放獣しなくちゃいけないという気になった。田中優子の『カムイ伝講義』読んでて、熊肉食ってみたいな、とか思ってたけど反省した)。
オリンピックは疑似戦争として始まり、近代五輪の理想主義時代にやや日和ったけど最近また本来の疑似戦争精神に立ち返りつつある。平和の祭典とか、恥ずかしげもなく言いながら。
どうせなら、しっかり疑似戦争にしたらどうだ。出場選手は各国の軍人だ。全ての選手が国家の威信―国家の威信と言えば、スポーツ振興の美名の下、賭博まがいのサッカーくじを推し進めてスポーツ界で大きい顔をしている人物が、新国立競技場の設計への注文で「世界に誇れる、アジアの中で断トツのスタジアムをぜひ造ってほしい」などと妄言を吐いているらしい。オリンピックの狂騒が原発事故、震災被害からの復興を直接に邪魔している現状が世界に誇れるかどうか、福島のサブドレンで頭を冷やして考えたほうがいい―を掛けて死に物狂いで戦う。「雰囲気を楽しめればいいと思います」なんてチャラチャラした事言うやつは10日間の営倉だ!営倉ってどういうものかよく知らないけどさ!
平和の祭典!どの口から出てくる言葉だろう!平和はすべてのものが同時に仰ぎ見うる性質を持たない。あるものは平和の上で居眠りを盗み、他のあるものはその同じ平和の下で血を流している。殺すものと殺されるものが互いに平和を祝福する。そんなことができるか?
感動的で集団的な熱狂が日々捏造されている。集団に寄生せずには生きられない、そういう立場(寝床?)を手に入れた者たちによって。
お熱は無いようだね。