「私はシャルリ」とは言えない

言論の自由に関する権利は、護られるべきものであって、振り回すものではない。

言い回しの巧みさと、声の大きさは「言論人の武器」である。そのような「武器」を非言論人に向けて使うことが、何故おおっぴらに、文化的行為のようなふりをしてまかり通っているのだろう。非言論人が彼らの「武器」を使って反撃してくるのを十分に予想しながら、何故、挑発的(で英雄的)な悪ふざけが続けられるのか。非言論人の「武器」の生産企業に資金が廻るように仕向けるのも「言論人の武器」の重要な役目だから、その「武器」を流通させ、実際に使わせる必要があるのかもしれない。

殺人を擁護する心算はない。つもりはなくても遺憾ながら態度で示している場合もある。

空爆で人を殺すのは、毎日まいにち繰り返される、軍隊による虐殺行為は、何故許されているのだろう。許されていないはずはない。許されているのだ。物言わぬ民衆によって。

「私はシャルリ」の旗を振って先頭を行く者たちは(そしてゾロゾロと行列に並ぶ人たちも)、「私は負けない」と叫んでいるらしい。

勝ち負けの問題か?